Photo Essay

2024.01.27のフォトエッセイ

26日で36歳になった。
釈迦が菩提樹の下で悟ったのが35歳のとき。
自分も、35歳までには何かをつかみたいと思っていたら、ここ5年間で雪崩のように体験や気づきが押し寄せて、あと少しというところまで来ていた。

この世には誰もいない。全ては潜在意識による幻想。他人はいない。自分もいない。
その結論は直観的に揺るがなかったのだけれど、裏付けがない。首の皮一枚繋がったエゴが、俺を現象に釘付けにする。もどかしい。離れたい。
そんな折、36歳になった直後に見た夢で、全てが繋がった。

夢の中で俺は、おそらく人生で初めて他人の発言に激怒した。自分の夢はいつもメチャクチャなことが慌ただしく起こって感情は特に伴わないことが多かったのだけれど、今回は、リアルで見た記憶もない知らない中年女性の失礼な発言に激怒した。
パッと目覚めると、わなわなと震えていたのか、身体が少し熱くなっていた。

夢うつつの状態で、ふと考えた。
彼女は俺の夢の中の登場人物で、紛れもなく俺の意識の産物だ。彼女は、俺と別の意識を持った個体ではない。けれど彼女は意識があるかのように俺に向かって話し、そして俺は本気でそれを受け止めて激怒した。
全部自作自演。誰もどこにもいないのに。
そこで俺はハッとした。現実世界も同じ話じゃないか。
世界は自分の意識の産物とかワンネスとか、散々聞き飽きたことが、こんな単純な体験で腑に落ちるとは思わなかった。

独立後、現実が単なるゲームやシミュレーションであることを信じざるを得ないようなシンクロニシティを散々見せつけられてきた。

どんな現実を生きるかは、どんな詩集を買うかに似ていると思った。
詩を完全に理解することはできない。けれど心地よい世界観はある。自分にとっての萩原朔太郎がそれだ。他のどんな詩人の詩集を読んでもしっくりこなかったけれど、萩原朔太郎の詩は言葉を追うだけで幸せな気持ちになれる。精興社書体とのマリアージュが素晴らしすぎて、見てるだけでも引き込まれる。理解するには何度読んでも足りないだろうけれど、少しずつ深まるから何度でも読み返せる。

自分の潜在意識が選んだ世界は、エゴには理解できない。わからないことがたくさん起きる。けれど、自分はこの詩集が心地よいと思って選んだのなら、何が起きても外れることはない。
俺はこのメチャクチャな世界で、あらゆることを経験させられて、疲れ果てて、それでもこの現実を愛せると思った。わからなくても、詩集のページをめくりたいと思った。

わからなくていい。
あるべき形から外れることはない。
今この瞬間だけを生きる。