Photo Essay

2026.03.26のフォトエッセイ

朝の満員電車で吊り革につかまってぼーっとしていたら、目の前、吊り革の奥にある棚に数字が書いてあって、その数字は左目を瞑って右目だけで見ると吊り革に隠れて消えてしまう。けれど左目を開ければ急に姿を現す。
そんなことに気づいて、無明が晴れるとはまさにこういうことだよなあと思った。
この世界の真理に気づくことで、現実は変わる。けれど、それは、潜在意識、引き寄せ、宇宙のパワー云々で現実をコントロールしましょう!みたいな話じゃなくて、ただ錯覚が解けることでもともとあったものが見えるというだけ。
それも、その錯覚というのが、常識や科学で理解できる錯覚というのを超越している、もっと根源的で大がかりな錯覚だから、驚くべきパワーで現実が変わったように見えるだけ。
いかに人間が記憶に踊らされ、心の反応で歪んだ投影を見てそれにまた反応して、というループで、小さな箱庭の中でマッチポンプを繰り返しているか。
それに気づくことは、コペルニクス的転回の比ではない衝撃であり、一方でとても静かで当たり前のことでもある。
ラマナ・マハルシは、首にかけたネックレスを失ったと思い込んでいる女性を例に挙げている。
不安も安堵も喜びも、全て捏造したもの。
子どもと一緒に週末にドラえもんを見ていると、ドラえもんの話の展開もマッチポンプの繰り返しだなあと思う笑
この感覚に気づくにはうってつけの素材かもしれない。

この写真は、2022年2月22日、この世界の完全性を見たので思わずスマホで撮ったもの。
この景色を見て、不足感や不快感に苛まれる人はいるだろうか。
マッチポンプが楽しければそれでも全然いいけれど、ずっとやっていると結局同じパターンで、飽きてくるのだ。
そして、この世界の真の完全性に気づき、本当は時間など存在せず、何も繋がっていなくて、唯一無二の完璧な実像が展開しているのが本当なのだと知ったとき、自分で穴を掘って埋めて喜ぶみたいな作業でこの生を終えることにどれだけ意味を感じるだろうか。

しかしここで誤解を招きやすいのが、「じゃあ金なくても結婚できなくても病気でも我慢しろってこと?」と。そうではない。
そのフレームにいるかぎり、金持ちも貧乏も既婚も未婚も健康も病気も同じ。勝訴も敗訴も同じ。
二元的相対の枠の外にある完璧にただ在るということ。そしてそれだけがこの世界の実像であり、全てであるということ。
そこに在れば全てが完璧に起きてくる。二元性のフレームでしか捉えていなかったことが馬鹿馬鹿しくさえ思えてくる。
弁護士で勝訴も敗訴も同じってどうなのよと思うかもしれないけれど、自分からすると、勝訴敗訴で騒いでる弁護士ってどうなのよという感覚である。
粉瘤は自然治癒することがないので、手術するしかない。自然にできたものが自然に治癒しないというのが不思議だけれど、無明を断ち切る明智というのはまさにそういうものだ。なぜ無明が生じたのか?なぜこの二元的相対の枠の中で人はもがき続けるのか?そんなことずっと考えていても絶対にその枠から逃れることはできない。不完全性定理みたいなものである。その枠の中では矛盾を解き明かすことは永遠にできない。

10年以上前、函館で鎖骨を骨折して入院手術して、退院したとき、近所のスーパーに行くために雪道を歩き、空を見上げたときの青空があまりにも綺麗で、ああ幸せだなと思ったことを今でも覚えている。けれどそれはほんの数時間で消えて、また日々の煩悶に埋没していったのだ。
あのときは、骨折や手術の痛みとか、病院食の味気なさとか、そういうものからの解放で一時的に幸せを感じていただけだと思っていたけれど、なんのことはない、あのとき隠れていた実像が顔を出していたのだ。
吊り革の奥の数字がちゃんと見えていたのだ。記憶が、社会が、不足感が、義務が、この世界の全てだと思い込み、また片目を閉じて見えなくなってしまったのだ。
だから人間がすべきことはただ目を開けなさいということ。
言葉は違えど、釈迦もキリストもマハルシも皆同じことを言っている。