地元の印刷加工会社さんが紙の端材を使って自由に工作ができるスペースを用意してくれていて、息子と2人で訪れた。
どうにも昔から図工や美術が苦手で、芸術の鑑賞は好きだけど作るとなると全然ダメ、アイディアが全く浮かばないという感じで、相変わらず「パパはこういうの苦手なんだよなー」で見守る側に逃げようとしていたのだけれど、いや、別に何か作ろうとしなくていいんじゃね?どうしてもなんか上手に作らなきゃとか素敵な作品にしなきゃとか思ってたけど、そもそも「なんだかよくわからないけどなんかできた」でいいんじゃないか?と思い、まずは自分の好きな色の端材を集めてみよう!となり、とりあえず机に並べてみた。
そうしたら勝手に身体が動いて、あ、こうしたら面白いかも?なんて思いついたりして、気づいたら作品ができあがっていた。
最初は僕たち2人しかいなかったのだけれど、気づいたら他の子達がどんどん集まってきて、保護者もわらわらと周りを取り囲み、なんかすごいカオスになってきたけれど、全く気にならない。ただ黙々と集中して取り組んで、息子も楽しそうに工作に取り組んでいた。
できあがった作品、息子に「これはワニ?」と聞かれ、「なんだろ笑 未来のペット?かなあ笑」自分でもよくわからん、と。でもそれがとても軽やかで楽しい。
息子も、同じ形の端材を意味もなく30枚くらい糊付けして重ねて、パパも手伝って!と言われてひたすら糊付けしていたのだけれど、ミルフィーユみたいに層になった分厚い端材を見て、おお、なんか質感が面白いぞ、と。間違いなくそこに新たな創造が生まれたのだ。
自分のこの作品も、たとえば後付けで「カンディンスキー風の記号的世界解釈と、サモトラケのニケをオマージュした神話的スクリプトを中心に、ワニの歯の凶暴性とカメレオンの変幻性をポップなモチーフに同居させることにより世界の抽象性・幻想性を軽やかに突きつける、サイトウの初期の意欲作である」とかコメントついてたらなんかすごそうになるので笑、言葉や概念なんていうのは全部後付けなのだ。
何かを作ることを目的にしていないと、工作そのものが楽しい、となる。息子もそうだ。何かを作ろうとして同じ端材を意味もなく何枚も重ねない。しかしそこにこそ生の世界があり、むき出しの創造性が輝くのだ。
他の子どもたちは、親に「何作るのー?」と聞かれ、「わたしはスマホ作るー!」と無邪気に答え、「おお、スマホいいねー、がんばってねー」と遠巻きに眺めながら親同士雑談している。
そんな中、子どもたちに混じって黙々と好きなように作り続ける。隣の子どもが勢い余ってこっちにぶつかってきても、何も気にならない。「あ、ごめんなさい!ほら、お兄さんにぶつかっちゃったんだから謝りなさい、ほんとごめんなさい」……どうでも良いよ。
大人たちは頭で生きている。どう見られるか、どう体裁を整えるか、どんな反応が返ってくるか。自分の立場を守れるか。
そんなものは全部、この創造のエネルギーと静かさの中では、取るに足らない。遠巻きに頭で考えながら子どもを眺めているのと、この小さなボルテックスの中に入って無心になるのとでは、同じ空間でも違う。まるで、違う。
どっちがいいとかいうつもりもないし、自分のほうが進んでいるというつもりもない。むしろそれを言うなら退化しているのだ笑 ただ、同じ時間を過ごすなら、こういうほうが絶対に楽しいし気持ちが良い。
「何作る?」「何する?」をやめれば、すべてがひっくり返る。