Photo Essay

2025.09.28のフォトエッセイ

前回の記事で、自分はいないという話をしたけれど、じゃあゲーセンで子どもとエアホッケーして楽しそうにしてるこの男は誰なのよと聞かれれば、こんな奴知りません、なのです。
だいたい直接顔や全身を見たこともないこの男を、写真や鏡をもとに自分だと思ってるほうが妙ですね。
そもそも身体が自分だと思ってないので、タンスの角に足の小指をぶつけても、「痛い」という感覚の広がりと腫れた小指の映像があるだけだし、何か悲しかったり腹が立ったりしても、悲しいとかムカつくとかそういう感情の吹き出しがポコポコ浮かんできて空間に漂ってるだけで、自分が悲しいとか自分が怒ってるとかではないのです。
この男(と分類される物体)はただの現象で、自分(真我)から投影されたもの。世界全ての一部でしかない。感情も思考もない主観視点で、シムシティみたいに作った世界を楽しんでいるようなもの。視点に人格はない。
楽しかったり喜んだりしてる時、夢中な時、自我はどっかにすっ飛んでいる。自我をバイパスして真我そのものとして在るからだ。だからただ楽しいがあって、あとで写真を見せられてなんか納得しちゃってるけど、別にこの男が自分なわけではない。
反面、苦しい悔しい悲しい不安だ、そんなとき、めちゃくちゃ自我が顔を出してくる。「自分はこの心であり肉体だ」というフィクションにどっぷり浸かって、世界から分離された個体として悩み苦しむ。
ということは「自分」がひっついて回る感情は全て嘘ということですね。自分の都合とかプライドとか過去とかあれこれ考えて思考が始まったら、ダウト。
自分もここまで来るのにだいぶ回り道をして、認識の変更について知ってからも5年以上毎日悩み苦しんで、いろんな現象の展開を経て、「全部関係ない」をようやく心から腑に落とすに至った。
なまじ勉強しすぎて頭カチカチだったので、この四角い頭を納得させるには経験だけではダメで、哲学宗教、いろんなインプットが必要だった。ヨーガ・ヴァーシシュタも、最近ようやくビビビっときてぐんぐん理解できたけど、3年前にも読んでたのに全然分かってなかったんだなと、自分のエゴの頑固さに辟易した。
結局、学んだことを全部捨てることになるというのは本当。だって何も関係ない。エゴから離れて放っておけば全部完璧になる。
理不尽に悪いことは沢山あったけれど、理不尽に良いこともちゃんと何度もあったのだ。魂に抗えずにイレギュラーな道を進まされて、ボコボコ現実にやられていくうちに、気づいていく。「そもそも理なんてない。だから理不尽なんてない。」「良いも悪いもない。誰が判断してる?」と。

Googleによれば、このサイトに辿り着く検索ワードで、isaさんの名前が上位に上がってきているから、その人たちのために、isaさんの自愛について少し補足したい(相変わらず読者置いてけぼり笑)。
isaさんの言う通り自愛したら全然変わらずむしろ悪化した!とか騒いでる人たちは、間違いなく前提が間違ってる。自愛は、「自分が大切だから」やるんじゃない。むしろ「自分なんてないしどうでもいいから」やるんだ。
完璧なのはエゴのいう自分(わかりづらいので便宜上自我とする)ではなく、本当の自分(真我)だ。
真我に委ねれば全部完璧に最良になるのに(なぜならこの世界自体、真我がコントラストを用いて完璧を感じたくて作った世界だから)、肉体を持ったがゆえにポコポコ湧いてくる思考のアレコレを勝手に束にして自我という仮想概念を作り上げて、それで勝手に悩み苦しんでるから、自我にオールOKを出して解放してやれと、エゴをバイパスして真我実現しろと、そういうことなのだ。それがいわゆる7章の世界。
言葉は実像の外縁しかなぞれないから、100%完璧な表現はできない。だから、ここではあえて、他の人がしていない表現で自愛を説明してみた。
自分はある時この事実に気づいてハッとなって、それでisaまとめを読み返したら全部わかったので、これで同じようにハッとしてくれる人が少しでもいたら嬉しいなと思う。

最近説法のような記事が続いていたので笑、気持ちの良い天気になってきたこともあるし、愛用のGR3xで撮った写真をライトに載せていくブログにまた戻っていこうと思う。

なんでこんな意味わからん長文書いてるのかと言われれば、ただ書きたかったから。なんで今日つけ麺食べたのと言われても食べたかったからだよというのと同じ感覚です。笑