電車で「自分とか、ないから。」という本の広告を見た。どうやら東洋哲学に関する超訳本で、「生きづらさが少しマシになるかもしれない」という。
超訳本の是非を語る気もないし(自分は興味ない)、ネットでの評価も高いので、こういうの読みたかったーみたいな人は多いのだろう。
けれど、「生きづらさが少しマシになるかもしれない」のは誰がそう思ってるのだろうか。
結局、「自分とかないんだ!」と思い込んで一瞬安心するエゴを生み出しただけのこと。
自分は最終的にはラマナ・マハルシの「真我」で認識が完全に変わったクチだけれど、これは本当に強調したいところで、「現実は気の持ちようで少し楽になりますよ」というのじゃなくて、本当に認識が変われば物理現実(と見えているもの)が変わるのだ。気の持ちようだと言うならそれだけ言ってるしそんな馬鹿みたいな話はない。
エゴによる思考(自我による想念)が消えて真我(アートマン)の意識そのものとなったとき、世界の本当の姿が現れる。蛇だと思っていたらロープだったということが本当に起こる。現実は本当に変わる。
とはいえ、自分=世界の認識になると、別に現実がどうなろうとどうでもよくなってくるというか、ただ瞬間瞬間の現れがあるだけというか。
意識そのもので、自他の区別もない(それは自分=他人という個=個の関係ではなく、ただ自分の認識するこの世界がただ一つの意識そのものであるということ)世界で、他人と比べてどうとか評価とか承認とか贅沢三昧とか本当にどうでもよくなる。
ただ、夕焼けや星空が美しいように、暴風雨ですら、エゴの都合さえなければ、ただ家の中から眺めていれば美しいように、森羅万象そのものであるのが至福だというだけだ。
それに付随して、いわゆる俗世の願望的なものも気づけば叶っているし、幸せを手にしている。
ただそれに執着もなければ、逆に嫌気がさしたりもない。ただ受け入れるだけ。
現実は、このみなとみらいの遊園地の回転アトラクションのように人間を翻弄する。
けれど本当はただの錯覚で、エゴがアトラクションを作り出して一喜一憂しているだけなのだ。
ただそれに気づくというだけ。
ゲームやアトラクションを続けたければ続ければいいけれど、自分はもう喜びも苦しみも散々味わったので、ゲームをやめて意識そのものに還っただけ。
前から言っているけれど、本質的には現象に良いも悪いもないので、紛争も法律問題も全部虚像なのだ。
けれど虚像を現実として信じて、いわば拡張現実を生き続けてきたのが僕たちだから、対処は必要。そこで弁護士が場合によってサポートする。
真の幸せの向きを向くために、荷物を下ろしてほしいなと思う。
自分自身にも、言い聞かせている。
あれ、自分とかないんだけどな(笑)
どうしても文章を書くと、どこまでも自分が潜り込んでくる。
そのどうしようもなさも含めて、ありのまま。