青山のスパイラルに展示されている、Mona Sugataさんの「Tree of life」。
この空間に身を置いたとき、死後の世界ってこんな感じなのかなと感じたけれど、その後雪崩のような気づきが次々訪れるにつれて、これは生まれた時から今まで、そしてこの幻想から覚めるときまでも、ずっと変わらず目の前にあり続ける実像なんだろうなと思った。
生も死も幻想で、ただその夢から覚めたとき、ずっとそこにあった実像に意識が還っていくだけなんだろうなと、そう思っている。そもそも時間の概念すら実像には存在しない。幻想の中で、時間という概念を用いて慌ただしく動き回っているだけだ。
今年の1月14日の記事で、悟ったようなことを書いていて、そのときは確かに色々なことがわかった気でいたのだけれど、驚くことにその先がまだまだあった。
あのあと、人生(そもそも人生という概念が幻想だけど)で一番の衝撃なのが間違いないほどの最大級の神の完璧(自分は、今は神とは実像の本当の自分=真我、アートマンという感覚で捉えている)をまざまざと見せつけられて、そこからこの世界の実像にさらに関心を持つようになったのだけれど、探れば探るほど、出てくる出てくる、エゴの歪んだ観念とそれが描き出す不足の幻覚が。
本願の一つで神の完璧を受け取ってしまったからこそ、どうしても幻想に甘んじることができず、魂に従って進むことで、エゴの攻撃を受け続けることになった(全部実は自作自演なんだけども)。
結局その状況も、神の完璧により、ありえない方向からあっけなく解決して、今、自分は完全なる充足に思いを致している。
得たり失ったりの幻想のゲームではなく、実像からの光を受け取るということ。
弁護士がこんな感覚を持ってるなんてイメージと真逆すぎて面白いなあと自分で思うけれど、法的問題はその人の本質などではなく、誰もが本来、そんな煩わしいものに邪魔されずに魂のままに輝いているはずなのだ。
それが社会やエゴの靄によって見えなくなっているだけ。
目の前の問題を一つでも解決することで、靄を払い、本当の輝きを少しでも取り戻してもらうこと。
何度消えてしまいたいと思ったかわからないけれど、魂の声と実像の光だけを信じてここまで突き進んできた。
ありのまま自然体で、それでいて仕事はきっちりと。
これからも、信念を持ってこの天職に向き合っていきたい。