Photo Essay

2024.10.03のフォトエッセイ

先月の、まだ残暑の厳しかった頃の朝。
寝室の小窓のカーテンを開けるとすごい日差しで、いつも綺麗に掃除しているはずの部屋に沢山の埃が照らし出された。
空気清浄機を強にしても全く無意味で、「仕方ない、一瞬で消える魔法を使おう」と、カーテンをシャッと閉めたら、その瞬間に埃は全て消え失せ、いつもの綺麗な空気の部屋に戻りましたとさ。めでたし、めでたし。
笑い話のようで、この瞬間に鳥肌が立つほどの気づきがあった。「全てある、既にある」ということだ。
沢山の幸せを感じるとともに、同じだけの絶望を味わってきた36年間だった。12年前、某所の美しいカトリック教会の門を叩いたことをきっかけに、精神世界の探究が始まった。
離婚して教会を離れたが、仏教やインド哲学、西洋占星術からニューソート、掲示板の潜在意識界隈まで、あらゆる本や記事を読みあさり、並行して壁にぶち当たり何度も絶望しながら、数えきれないほど常識で説明できないシンクロニシティを経験してきて、全てが繋がった。
三位一体と梵我一如と別の領域は全て同じ。旧約聖書で神がモーセに言った「I am that I am(私はあるという者だ)」という一見ヘンテコな言葉の意味も10年以上経ってようやくわかった。
ルビンの壺のように、あるのに見えなくなっているものが沢山ある。今目の前の世界はゼロポイントフィールドで、何もないが全てがある。色即是空。そうとしか説明できない。
全てと繋がるには、思考を止めること。エゴの幻想を支えないこと。自我ではなく真我に委ねること。
弁護士なのに思考しないとか大丈夫なの?と思われる方もいるかもしれないが、法のゲーム(もちろんプロスポーツと同じ、真剣な意味のゲーム)はプロとして真剣にプレイする。しかし日常で理屈とか相当因果関係とか本当にどうでもいい(笑)
頭でわかることなんてこの世界の3%にも満たないと言われている。ほとんどの出来事は理屈を超えて起こる。堅苦しい言葉で何かわかった気になっている法律家はアホだ。
サッカー選手が日常生活でも手を使わずに生活するわけがない。弁護士こそ言葉の力とともに言葉の無意味さを知るべきだ。
法的権利の主張は人間の全てではない。やれることはしっかりやる。しかしそれはたとえば慰謝料のために慰謝料を請求するのではない。あなたの魂や人生の価値は慰謝料なんかで測れるものじゃない。もっと崇高で深淵で輝かしいもののために、ひとまず社会上の問題を解決して、視界をクリアにするのだ。
少なくとも僕はそう考えている。
ちなみに今回の写真は、愛用の豆粒コンデジのジオラマモードで撮影したみなとみらいの交差点。おもちゃみたいで可愛くて気に入っている一枚。