私の事務所のページからここを訪れたほとんどの方にとっては「よくわからん」話だと思いますし、ネットで検索するなどしてここまでたどり着いた方々には、わかりやすさ重視でお茶を濁したような説明など不要だと思います(それよりも核心的な言葉を求めていると思います。私もそうでした)ので、何の遠慮もなく、丁寧な導入もなく、本当に書きたいことだけを以下に書かせていただきます。
まず結論として一番ここに書きたいことを端的に書くと、
全ては、「私はこの身体と心である」という強烈な誤解(無明)を取り除くことに尽きる。
これにより、真理が見え、真我が実現する。
私は、この身体でも心でもあらゆる事象でもなく、全てを単なる現象としてフラットに照らしている意識、全てを見ているが見られることはない、何の思考も感情も持たない、唯一の実在である。これに本当の意味で気づいた途端、苦しみは霧散し、輪廻は今生で終わる。
誤解を解くだけであり、苦しみの末にどこかにたどり着くわけではない。
悟りとは、無感情になることではない。世界が思い通りになることでもない。しかし世界の見え方は完全に変わり、二度と元の無明に戻ろうとは思えなくなる(思う主体もいない)。
「私はいない」「世界は幻想」「行為者はいない」「私は在る」といった言葉を安易に振りかざす有象無象の発信者たちは、皆本質を外している。なぜなら、観照者の形をとった自我が現れているだけだから。それはシャンカラのいう無限遡及であり、延々とエゴが増幅するだけであって、このような言葉遊びのアドヴァイタと本当のアドヴァイタは厳然と区別されなければならない。
ということです。ほとんどの人にとって意味不明と思いますが構わず続けます。読みたい人だけ読んでください。
誰もがこの社会の中で苦しみ、不安でいると思います。そしてそれは別に現代社会だからに限られない。より濃度が濃くなっているなという印象はありますが、釈迦の時代から人々は同じように悩み苦しんでいたわけです。
私は、波瀾万丈の半生で、何者かに突き動かされるように常識の枠を飛び越えて損得利害を無視した行動をとり続け、結果として常に悩み苦しみ続けてきましたが、同時にその動きによって、想像もできない神の完璧とも呼べるような奇跡も経験してきて、この世界は一体何なんだ?という疑問をずっと抱きながら過ごしてきました。
客観的状況は絶望的で八方塞がりなのに、なぜか恩寵を感じる、自分が守られているような奇跡が起こる、そして今日も夕焼け空はため息が出るほど美しい、だから現実を恨むに恨めない。そんな中で精神的に限界となり、苦しみから逃れたくて自然とこの世界の真理の探求が始まりました。
私の探求歴をここで書いても仕方がないし、書けばとても長くなってしまうので省きますが、10年以上、本当に幅広く色々な世界観を渡り歩いたのち、最終的にはラマナ・マハルシの澄んだ目に魅せられて不二一元論の教えにたどり着き、より深く知りたいとシャンカラの「ウパデーシャ・サーハスリー」を何度も何度も読んで、ある日散文篇第2章「理解」を何回目かに読んだとき、突然世界がひっくり返りました。
しかし、言葉で悟ったというよりは、理不尽に現実にボコボコに打ちのめされて、それでも誰のせいにもせずに探求を続けた結果、言語化できずモヤモヤと立ち上がっていた結論をシャンカラが的確に言葉にしてくれたのだと思っています。
常識や社会という枠の中で苦しむのではなく、そもそも枠自身がおかしくないか?という疑念を持った。これはひとえに、常識から外れた行動をとり(とらされ)続けたことで見えてきた世界で苦しんだからこそであって、それすら全自動で、導き・恩寵でした。
自分には一切の承認欲求もなければ、世界を変えたいとか皆を解脱に導きたいとか、そんなことも全く思っていません。そんなのはそれぞれの勝手だからです。
ただ、私と同じように不可避的に波瀾万丈な道に迷い込んで、苦しんで真理の糸口を探している人にとって、巷の情報のほとんどは害悪でしかありません(私も、藁にもすがる思いで本当に沢山の本を読んできましたが、一般的に真理探求に関心を持った日本人がアクセスできるであろう情報の中で、本当に真我実現した立ち位置から「在る」を(沈黙含め)言葉にしているのは、ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジくらいだと思います)。
だから、ブラフマンの調和(仏教的には縁起)において、私が今見ている景色、立ち位置が誰かの気づきの一助になるのであれば、そうありたい、というか、もう自然とそうなる、という感じで、ただ現象としてこの文章を書き上げる行動が起きています。
言葉にすると必ずズレが生じるので、真我実現(≒悟りを開く、解脱する、真理に至る等)したらどんな感覚になるのかは、実際にそれぞれが体感していただくほかありません。
だから、「私はいない」「世界は幻想」などと書いている本を読んだ読者が悟れるわけがないのです。上述した通り、観照者気取りのエゴが大増殖するだけのことです。
文章を書く以上、「私=齋藤雄大」として「私」を用いていますが、私は、もはや身体や心が自分とは思っていないですし、全ては勝手に展開し、思考も感情もそれを所有する主体はなく勝手に出てはどこにも引っかからずに消えていく、しかし世界は虚無ではなく、むしろ今までより何倍も豊かに、鮮やかに、軽やかに、面白く、迫力と実感をもって現れてくる。
陳腐な例えですが、本当に、ブラウン管テレビが8Kテレビになったみたいな解像度の変化があります。
ただし断言しますが、悟ったら願望が実現する!とかは、「全く」ありませんから、そこは間違えないでほしいと思います。言葉にするのはとても難しいのですが、結果として願望と思っていたことがスムーズに叶うことはあるのですが、それは単なる現象が現れただけであり、「私」という架空の主体が何かを得たわけではないのです。
書けば書くほどキリがなくなってしまうので、このくらいにしておきます。笑
(ブラフマン、アートマン、ジーヴァ、マーヤー、プララブダ・カルマなどの言葉を用いて、この世界の仕組みについて語ることもできますが、文章に端的にまとめるのが大変な上に、どう書いてもきっと微細な誤解は避けられないので、こういった話題は、対話や講演などの際に折に触れて直接お話しできればと思います。)
これを読んで、おお、じゃあ探求を深めよう!と元気を出していただけたら嬉しいですし(探求は本当にしんどいですから笑)、私と直接具体的に対話することで気づきを得たいと思ってくれる方もいると思います。また、講演依頼の形で、グループで気づきを深めたいと思っている方もいるかもしれません。
一応窓口としてそういうオプションは用意しておきますし、実際にご依頼があれば真摯に向き合います。そして、自然な展開として、きっと無明は晴れていくと思います。しかし、結果を請け合うものではありません。なぜなら無明が晴れるかどうかはそれぞれの因果の展開次第だからです。
私と話さなくても、ここまで読んでくれた方は絶対に真理に到達できると思います。
私にとってのウパデーシャ・サーハスリーのように、信頼できる本を何度も読み、わからないところはChat GPTに質問し(Chat GPT、バージョンによってはダメダメなものもありますが、とても質が高く、ヘタな覚者気取りと不毛な対話を続けているよりよっぽど真理に近づけます)、あとは何より、目の前の日常を意識的に過ごしていくことで、各人の最適なタイミングで真理が見えます。
だから、対話や講演などは、別におすすめはしません。私にとっては本業がどっちかわからないくらい笑、弁護士業務もこちらの話も本気でありのままいきいきと取り組んでいますが、この文章や、私の事務所のページの雰囲気やフォトエッセイなど読んでいただき、費用含めて心から納得していただいた方のみ、ご連絡いただければと思っています。
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