Photo Essay

2025.12.16のフォトエッセイ

夜、ハムスターに餌をあげたら、いつもは紙床材の中に潜って餌を隠したりするのだけれど、昨日はなんか突然こっちを向いてハムハム餌を食べ始めるファンサタイムが始まった。
これは!と思い、急いでカメラを持ってきて撮影したのだけれど、暗いし動きが速いしでピントを合わせるのが難しく、色々調整してたらシャッターチャンスを逃してしまった。ハムスター撮るのってカメラの練習になりそうだなあ。
しかし、正面のショットは逃したが、その後背中を向けてモフモフしはじめたので、モッ、モフモフやぁー!とテンション上がりながらありがたく撮影させていただいた。
耳がモフモフから生えてるのがなんともいえず可愛いんだよなあ。ハムハム食事してるのでムクムクしてるのも実に良い。

ハムちゃんの世話をしていると、なんかコミュニケーションとれてるような気になるけど、実際はこの子は本能に従ってただ反応しているだけで、別に俺のことなんて覚えちゃいないしメッセージも感謝も何もないだろう。でもなんか動物番組みたいに頭の中で「おなかすいたなあ」「わーいごはんだあ」とかなんか可愛い声でアテレコしてるのである。ハムちゃんからすれば余計なお世話である。

実は自分の心の声だと思っている思考をこれまた自分だと思っている身体にくっつけて、さらにそれを自分だと思い込んでいる、それこそが無明であり、まさに無明とはハムスターの声を勝手にアテレコしているようなもの。
昨晩は、なんかモフモフ言いながらカメラ向けたり餌あげたりしてる男の肉体と、ハムスターと呼ばれているなんかモフモフで可愛い生き物、そして心の声としてどこかから響いてくる勝手なハムスターの言葉と、あと部屋の音とかいろんな微細な感覚器官を通した現れが、同時にあの場に存在して、しかもそれはなんの関連付けもなくフラットに存在していたのだ。
そこに「自分=この心身」という大いなる勘違い(無明)が作用すると、「俺がモフモフ言いながらハムちゃんに餌をあげてハムちゃんが喜んだ」というドラマが出来上がるのである。単なる事実を瞬時に階層化して関連付けて勝手にお話を作り上げるのだから、そりゃ人と人が話せばどんどんメチャクチャになるよねと。

ハムちゃんもカメラも餌も、そして俺だと思ってるこの身体も心の声も、全部同じで、全部どこにもありません。それを見ている(しかし見られることはない)ものだけが、実在するものです。