独特な切り口の美しい写真集「喫茶店の水」の真似をして、北鎌倉の「喫茶ミンカ」で水を撮ってみる。
水をうまく撮るのは難しい。
というより、水を含めた世界をうまく撮るのが難しい。
水はそれ自体、ほとんど何も主張しない。それゆえ、コップの形やテーブルの素材、背景、陰影などが際立ってくる。
老子は「上善は水の如し」と言い、それは水の性質を最善の生き方に例えたものだけれど、もっと突き詰めれば、自分の存在そのものが水のようであるとも言える。
ちょうど、自我と真我の関係に似ている。
本当の自分は身体ではない。意識そのものであり、今認識しているすべてのものが自分(真我)だ。ちょうど「水の写真」が「水を含む世界全体の写真」であるようなものだ。
そこには穏やかな沈黙だけがある。
最近、夢について考えが変わってきた。
夢と現実は単に心が違う世界に投射されているだけで、根底を流れる真我に変わりはない。つまりは夢と現実は同じものといってよい。
そこまでは今までの理解と同じなのだけれど、さらに踏み込んで、「夢というのは、現実という夢から容易に醒めさせないためのこのゲーム(神の戯れ、リーラ)のトリックでは?」と思うようになった。
夢がなければ、きっと「あれ、この世界って意識だけの幻想なんじゃね?」と気づく人はもっともっと多かったと思う。その証は沢山現れているから。
けれど、夢があることで、「夢は幻想、現実は揺るぎない実在」というコントラストが生まれる。これこそまさに二元である。
その二元につかまれば、「夢とはこういうところが違うから現実は夢とは性質が違うのだろう」とますます現実世界を実在と見るようになる。そしてドツボにハマっていく。
世界を実在と見る限り、無明は晴れず、苦しみに絶えず脅かされることになる。