余り物とホタテの缶詰で作った和風パスタが予想外にウマくて家族にも好評だった。パスタはイタリア人にとってご飯と味噌汁みたいなもんだから、具沢山味噌汁みたいに適当にぶち込めばなんとかなるだろと思っているし、そのくらいアバウトなほうがウマいのができたりする。
料理は「今」に集中できるし一種の瞑想のようなもので、ついでに腹も満たせるし素晴らしいよなーと思っていたけれど、正確には料理をしているのは今ではないと気づいてから、文字通り世界がひっくり返った。
実際起きていることは、本当の自分がなぜか知らんけど「パスタ作る」と意図したあと、時間の概念とか本来はないけど、順序としてそこから遅れて、「パスタ作る俺」が全自動で再生されてるだけなのだ。
より厳密に言うと「俺」もいないので、ただパスタを作る主観的光景が展開されているだけというか。
なので「俺」が「今」パスタを作っているのではなく、生成された「パスタを作っている俺的主観ドラマ」をただ何の感情も思考もなく眺めているのが事実なのだ。このときの本当の「今」は、本当の自分がその生成済みのドラマを眺めながらまた次の現実を意図しているのだ。だからパスタを作っているのは今ではなく、(時間の概念を借りて言うなら)過去ともいえる。
「事実」っていうとエゴ視点の観察事象でしかないから、僕の表現したいこととは少しズレるのだけれど。まぁ言葉はただの社会的伝達手段でしかないので限界があるのは仕方がない。
最近の齋藤は言葉遊びばかりでとうとう狂ったかと心配される読者の方も一定数いるかと思うけれど、こんな言葉遊びになぜか真実の光を感じて、自ら茨の道を進んでエゴにボコボコにされながら、ようやく、これが言葉遊びではなく文字通りだったと気づくに至った。
それも、言葉を言葉で理解しているだけの段階が何度もあって、結局は最後は料理しているときとか、そういうふとした瞬間にバーンと来るんだなと、それも先人たちの言う通りだったなとわかった。
例えて言うなら、顔にニキビみたいな腫れを発見し、直感で絶対埋没毛があるとわかっているけど見えない。抜きたくなり毛抜きで頑張る、血だらけになる、けど確信していじり続けたら突如埋没毛がスポンと飛び出してきて無事抜くことができて腫れが治った、そんな感じです(?)
賢明な読者諸君は、埋没毛を無理やり抜くのは良くないのでやめましょう!
なんかインド映画のようなごちゃ混ぜ感な記事になってしまったけれど、エッセイなんでこれはこれで良いですね笑