横浜の風景

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2020年5月17日

幸せにはなれない

アイキャッチ画像 考えたこと

今日の記事は少し長くなってしまうけれども、おうち時間で暇ができた時にでもゆるく読んでいただけたら嬉しい。

スマホ別居やストイック(そう)なライフスタイルの記事などのイメージからか、周りの方やブログを読んでくださっている方々から「自分を持っていて意志が強くて尊敬します」などと言ってもらえたりする。

そういうふうに思ってもらえるのは嬉しいけれど、実際は全然違う。逆だ。

ものすごく意志が弱くて自分なんてなくてフニャフニャだから、無理やりスマホを遠ざけたりあれこれ試してみたりしているだけで。

記事に載せるようなことでもないから書いていなかったけれど、バイオリズムなのか、調子の波も激しいので、気が漏れているときは四六時中悶々と悩み続けたり、おなかいっぱいなのに菓子パンを10 個食べたり昼ごはんを3回食べたり(笑)してしまったりする。こういう時は止まらないから崩れていくに任せて、また明日から立て直そうとする。

まあ、最近は崩れても大崩れしなくなったし、なんやかんやで体調は良いし、仕事や家庭には悪影響を及ぼさないから、3歩進んで2歩下がる形ではあるけれども確実に成長はしていると思う。

自営業は組織や周りに振り回されないからいいですよねと言われる。確かにそうかもしれない。けれど他人に振り回されないかわりに自分に振り回されるのだ。自分というのは他人以上にコントロールできなくて恐ろしいところがある。これは自営業の人にしかわからない感覚だと思う。

このコロナ禍も概ね落ち着いてきて、油断はできないまでも自分の仕事も生活も少しずつ元通りになっていくのだろう。その前に、神様がくれたこのありがたい内省と集中の時間に、今一度人生や幸せについてしっかりと考えてまとめておきたいと思った。

昨晩、おもむろに思いついたことをたくさん書き殴っていたら、ふとこんな文章を書いていた。

「自分のために生きようとすると自分を傷つける」

突然こんな言葉が出てきて驚いた。そして、自分の書いた言葉なのに、その真意を知りたくなった。考えに考えた。

なぜ、自分のために生きることは自分を傷つけるのだろう?

自分がとりあえず昨晩のうちにたどり着いた暫定解は次の通りだ。

自分のために生きるというのは、自分が幸せを感じるために生きるということだろう。

自分が幸せを感じるには、「人との関わりで承認欲求を満たす」「モノやコトに対し消費をする」「ヨガとか瞑想で自力で幸せになる」の3つの方法が大きく分けて考えられる。食事はモノの消費の一部だ。

まず、人との関わりで自分が幸せになろうというのは、言葉を変えれば他人を自分の欲の実現のために利用する、差し向けるということだ。他人は自分と異なる意思を持つ他人でしかないのであって、根本的に自分の思い通りにならないのだから、必ずこの方法が報われることはない(何もかも思い通りになるような服従関係ではそもそも承認欲求は満たされないはずだ。ここに重大なパラドックスがある)。

消費は欠乏と虚無感を招く。快楽をもたらすものは一時的で、程度の差異こそあれ心身に毒性があるものばかりだ。仮に体にとって本当に心地のよいものだけで幸福を得られているなら、その人はすでに悟っているのであって、常人はそのような境地には至れない。

ヨガや瞑想で本当に幸福に到達するのであれば、それは上記の通り悟っている人であって、それは一般社会に生きる常人には無理だ(ヨガや瞑想の効果を否定しているわけではない。自分も実践している。けれどそれは残念ながら我々常人には単なるリラクゼーションであり、ましてサマーディの状態に達することは相当な困難を伴うものと認識している)。

こういったことを考えていると、そもそも「幸せになる」ことを人生の目的に据える前提が間違っているのではないかと思えてくる。幸せという漠としたものを目的とすると、際限がなくなってしまう。いくら食べても、いくら交わっても、いくら金を持っても幸せになれない。満たされない。そういう人の話は飽きるほど世の中に溢れている。

そこでふと閃いた。人生の目的は、他人を、世界を、周囲を尊重し自分なりに行動していくことではないか。そして自分にそれを実践していくだけの体力(HP=ヒットポイント)があることそれ自体が幸せなんじゃないかと。こう考えると全てがしっくりくる。

他人や世界、環境を尊重して何か自分なりにアプローチをしたとして、仮に見返りがなくても、それは自分の幸せとは何の関係もないのだ。自分の幸せはそのアプローチができるHPがあることそれ自体なのだ。HPの量で幸せが決まるわけではない。アプローチは体を動かすことだけではない。その人の置かれた状況の中でできることをやるということを意味する。ただ他人に微笑みかけることだって世界への立派なアプローチの一つだ。微笑むことのできるHPがあること自体が幸せなのだ。

ゲームをやっていて、ボス戦の前でもないのにまだ余力のあるHPをこまめに全回復しているような人はそうそういないだろう。でも自分の人生ではそうしている人が多い。ちょっとHPが減っただけで不安になって自分を守ろうとする。

けれどそういうことをしても幸せにはなれないのだ。人に勝手に期待して裏切られたり、消費で欠乏と虚無感に陥っていくだけのことなのだ。

「他人の幸せが私の幸せ」という人がいるけれど、これは他人からの見返りを期待している。他人が幸せかどうかはその他人が決めることだ。それに自分の幸せを紐付けするなんて、エゴだ。これは綺麗事でも何でもない。見返りを求めない優しさが大事だなんてつまらないことを言いたいのでもない。

UVERworldというバンドが好きでよく聴いているのだけれど、「AWAYOKUBA-斬る」という曲の歌詞で、

君が君で産まれた事を幸せに思う為に僕は生きる

というフレーズがあって、初めて聴いた時鳥肌が立った。

「君を幸せにする」じゃないんだ。それは単なるエゴだ。君が君で産まれたことを幸せに思わせるというのは、全肯定だ。全尊重、全肯定だ。深い受容。言葉尻を捉えてあげつらったり些細な言動を批判したりするのとは正反対のスタンスだ。

これは恋人との関係を歌った曲だろうけれど、人間関係全般に言えることなんじゃないかって思っている。上述した、他人や世界を尊重して、自分なりに精一杯生きるという、僕の考える人生の目的と同じだ。

こういう考えに至って、不思議なことに過剰な食欲やねじれた承認欲求などが面白いくらいになくなった。家族のために、クライアントのために、大切な友達のために、その他関わる全ての人とこの世界のために。自分ができることをするためのHPがあればいいのだ。回復魔法や薬草でHPの上限は増えない。

だから、自分は「幸せにはなれない」のだと気づいた。

幸せはなるものじゃない。目的でも何でもない。人生の目的を達成するために必要な力が人それぞれあることそれ自体が幸せなのだから、こうして生きていることはすでに幸せなのだ。


saitoyuta
弁護士

横浜・桜木町を拠点に活動する弁護士。5年3か月の勤務弁護士時代を経て独立開業。一児の父。精通分野は交通事故(被害者側)。

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