横浜の風景

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2019年11月10日

信仰は“神頼み”なのか

アイキャッチ画像 考えたこと

「齋藤さんはクリスチャンなんですよね。私は、神様とかは信じていないし、神頼みはしないからわからないけれど……」

こんなことを言われることがたまにある。別に他人がどんな信条を持っていようが何も気にしないのだが、「神頼み」というのは違うんだけどな、とは思う。話しても仕方ないので口にはしないけれども。

クリスチャンというと、十字架を手に神にすがっているようなイメージを持っている人が多いのかもしれない。

いろんな宗派があるし、キリスト教に限らずいろんな宗教があるから、そんな感じで神頼みするような教えもあるのかもしれない。

けれど、少なくとも自分は、神様にすがろうと思ったことは一度もない。人生は結局自分の力で切り開くものだ。

聖書の教えやクリスチャンの祈りの中で、「お金持ちになれますように」「世の中で成功しますように」なんて利己的な祈りは一切ない。むしろ金持ちは天国に行けないくらいのことを書いてある。

他人の幸福や成功を祈ることはある。自分ではそれ以外どうしようもないからだ。しかし自分の幸福や成功を祈る暇があるなら行動するしかない。そして当たり前のように存在する毎日に感謝すること。

サミュエル・スマイルズの「自助論」という本が好きで、読むたびに気持ちが高まる。ものすごく抽象化すると、とにかく情熱を持って努力して自分の力で人生切り開け、みたいな内容なのだけれど、自分は、聖書とこの本でまったく矛盾することはないと考えている(とりわけ、新約聖書の「ヤコブの手紙」は行動派の自分にはとてもしっくりくる。どの言葉も刺さるので好き)。だからどちらも愛読書だ。

自分の好きな言葉に、聖ベネディクトの「祈り、働け(Ora et Labora)」を挙げた。神頼みとは全く性質が異なる言葉だとわかるだろう。陽明学の「知行合一」も好きな言葉だ。全て通じるところがあるのではないかと思う。

もう一つ、自分の好きな言葉に、本多静六の「人生即努力、努力即幸福」がある。人生はすなわち努力であり、努力はすなわち幸福であると。これは、個人的には、とにかく努力せい、みたいな意味ではなくて、「努力さえしていれば必ず幸せになれるから大丈夫だよ」という意味に聞こえる。これはとても救われる言葉だ。

自営でやっていると、収入は水物だし、先行きが不安になることもある。仕事量はとても多いのにあまりリターンがないような時もある。でもそんな時に、「努力していれば絶対大丈夫だから」と言い聞かせられるのは、とても精神的に良い。

信仰も結局そういうことなんじゃないかなと思う。

努力して真摯に向き合っていけば、きっとなんとかなる。そういう確信というか、命綱みたいなものだ。

命綱をつけて高所で仕事をする人を見て、あいつは神頼みだ、命綱にすがっていると誰が言うだろうか。

自分で人生を切り開くというのは、もちろん、自分一人で生きるという意味ではない。人に頼らなければならないことだって色々ある。けれど、最終的な舵取りはいつも自分だし、自分の人生を作るのは自分しかない。人のせいにして幸せになることはあり得ない。

アンラッキーなことにトラブルに巻き込まれてしまった方が、納得できる形で一つの区切りをつけ、またご自身の力で歩き出していけるように、自分はこれからも弁護士の仕事に全力と誠意を尽くしたいと思う。


saitoyuta
弁護士

横浜・桜木町を拠点に活動する弁護士。5年3か月の勤務弁護士時代を経て独立開業。一児の父。精通分野は交通事故(被害者側)。

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